岡崎市で産声を上げた正幸少年

昭和62年4月23日。
岡崎市にある産婦人科にて、小林家の長男として誕生。
翌年、次男の博隆(専務)も誕生しました。

正しく幸せに生きてほしいとの願いから「正幸」と名づけられました。

父(会長)は大手ハウスメーカーの建方と呼ばれる構造材を現場で組み立てる工事をする職人でした。
私は2歳まで岡崎市で育ち、その後母の地元の西尾市で家を建てることとなり西尾市民となりました。

父は平成2年に当時勤めていた会社から独立をし、小林工務店を設立したそうです。
私も物心がついたころには、

「跡取りだ」 「二代目」 「若」
などと周りからもずっと言われていたこともあり
「将来は小林工務店の社長になるんだなぁ」そう思って育ちました。

当時は自宅兼会社で従業員も一つ屋根の下で共に生活しており、母は経理として仕事をしながら親代わりとして食事を作り、私と共に食卓を囲んでいました。

子供のころの私にとってそんな従業員の人は

自分にとって「お兄ちゃん」
まさにそんな存在でした。

一緒に遊んでもらうことも多く、キャッチボールをしたり釣りに連れて行ってもらったりと会社や社員の人たち常に身近で家族と同じようなものでした。
実は、そのお兄ちゃんは今一緒に働いている仲間の一人です(笑)
これだけ長く一緒にいると本当の兄弟のようです。

野球三昧で精神を鍛え上げた幼少期

幼少期の私はとにかく勉強というよりも外で遊ぶことが大好きなスポーツ少年でした。
小学校2年生から地元の少年野球チームに入団し、そこから毎日野球三昧。

中学時代には父にクラブチームを作ってもらい、仲間と一緒に毎日汗を流していました。
ちなみにチーム名はいかにも建築屋が作ったチームらしい「ハンマーズ」でした!笑
夏休みには「バイトにも来い!」と言われ、バットからハンマーに持ち替えることもしばしば。

そして高校の進路を決める時期、みんな受験勉強真っ只中にもかかわらず私は勉強よりも野球に夢中!

親にも「勉強もせず高校どうするの?」と聞かれても「俺は野球で高校に入れるからいいよ」と変わらず野球に打ち込んでいました。

なんとか野球だけが取り柄の私をスポーツ推薦で入学させてもらえる学校に入学し、15歳から親元を離れ寮生活がスタートしました。

高校時代は悪戦苦闘の毎日でした。

練習がキツイのは覚悟していましたが、野球以外での礼儀や寮生活での炊事、洗濯など今まで当たり前にしてもらっていたことをすべて自分でやらないといけない。

このときに親のありがたみを強く感じました。(親には弱音を吐けないので辛くて寮母さんに愚痴をこぼしたりしていたのはここだけの話)笑

そうした辛くも楽しい高校野球生活も終わりまた人生の岐路に立ちます。

「進学」か「就職」か。

これまでほとんどの時間を過ごした野球をまだやりたい気持ちと職人になるならもう就職して経験を積んだ方がいいのではないか。

自問自答の日々でした。

そんな時に父から言われた一言が

「後悔するぐらいなら好きなことを続ければいい。その後でも職人にはなれるだろ」

と言われ進学を決意し、スポーツ推薦で大学に入学することに。

そして青春に満ちた大学生活も終わりいよいよ就職の時期、そのまま家業に入るという選択肢もありましたがやはり一度外で仕事を学ぼうと思い、東郷町の建設会社に入社することが決まりそこから私の運命に満ちた大工人生がスタートするのです。

被災地で芽生えた命を守る家づくりへの想い

大工人生のスタートは、大工さんの専門用語がまったくわからず、いきなり壁にぶつかりました。

覚えることが多く毎日が新鮮。そんな中でも少しづつ技術も上達し、家を形にしていく経験が増えることが充実の日々でした。

職人として2年が経とうとしたそんなある日、私はいつものように現場で作業をしていたら、視界がゆっくりユラユラ揺れた気が・・・・。

私はてっきりちょっと疲れているのかな?それぐらいに思ってあまり気にせず作業をしていました。

すると・・・

「早く下に降りてこい!」親方から突然呼ばれ、

「地震だ!かなりデカイみたいだぞ!」と親方の怒声にも似た声とラジオの大音量の速報に驚き固まっていました。

― 2011年3月11日 東日本大震災 ―

あわてて家に帰りテレビをつけてニュースを見てみると。まるで映画でしか見たこともない映像が飛び込んできました。
大津波が家や車を飲み込んでいき、町は壊滅的な被害にあっていました。

日常が一瞬にして変わり果てた姿に自然災害の恐ろしさを知りました。

そんな震災から2ヶ月ほどたったころ、岩手県の宮古市に復興チームとして仮設住宅を建てに行くことになりました。

被災地に到着するとニュースで見る何倍もの衝撃が目の前に広がっていました・・・・

建物は流され、見渡す限り基礎だけが無残に残り、がれきの山、家財道具が道路に散乱していました。

その時の光景は今でも目に焼き付いています。
しかし、そんな惨状の中で倒壊いていない家がチラホラある。

そう、耐震性が高い家は残っているのです。私はその事に深く感動をしました。
現地の人とも触れることで、大切なひとの命を守る家づくりへの想いが沸き立ってきました。

これが今の私の家造りの使命の一つである耐震性です。
家族が安心・安全に暮らせるように「家は家族の命を守らなければいけない」

この復興作業で私の家づくりへの思いに変化が出てきます。
今までは「とにかく図面通りにしっかり組み立てるんだ。」という思いで仕事をこなしてきましたが、どうしてこのような間取り、仕様にしたのかなどお客様の想いや背景、そこに潜むドラマを考えるようになりました。

そして、月日が経ったある日突然、父が病に倒れました。

幸いにも命に別状は無かったのですが、少しの間入院ということで現場に出られない状態。

この時に、家業に戻って跡を継ごうと決意します。

そして、小林工務店をもっと盛り上げ、親父に安心してもらおうと奮闘します。

その中で、特に心に残った2棟の新築住宅があります。

それは私の中学の友人の住宅を建てたときのことです。
家族の写真「正幸に建ててもらいたい」とその友人2人はハウスメーカーや実績のある工務店よりも私を信用して家づくりを任せてくれたのでした。
そう言ってくれた友人にとてもうれしかったことを覚えています。
それと同時にある感情も芽生えました。

お客様にとって安心安全で、オンリーワンの家造りに携わりたい!!

お客様の家づくりに対する想いを結び付け、カタチにすることこそ家づくりの醍醐味じゃないか!そう思い、ここから私の考える家づくりが本格的に歩みだします!

安心安全な家づくりとともに、あの日感じた非日常を暮らしに

耐震性の重要性と共に重要視している部分がもう二点あります。
一点目は、「家族の健康」です。シックハウス症候群という言葉をご存知でしょうか?

最近では高気密住宅。住宅建材に使われる化学樹脂から様々な種類の化学物質が揮発しており、住まいの空気質、そして住む人の健康に大きな影響を与えることがあります。

このことから私が考える家は自然素材を使った健康住宅を建てようと考えました

二点目は、「デザイン」意匠性です。私がハワイや沖縄で体感した非日常的な世界観。

リゾートにいるかのような開放的で自由で楽しい空間。そんな空間を家づくりにも反映させたい!見た目だけではなく、お客様に合ったライフスタイルをご提案し、日常を特別なものに、愛着の持てる家にしたい。世界に二つとない自分たちらしい家。

そんな「家族の愛が詰まったオンリーワンの家づくり」をしていきたい。

地元企業であるからこそ、
人と人とをつないで町を元気にしたい。
50年後も100年後も愛される街であってほしい。
そう願ってAmour Home小林工務店は歩んでいきます。
「抹茶」「ウナギ」「ワイキキビーチ」やっぱり西尾が好き!


"アムールホーム" 小林工務店株式会社 代表取締役 小林 正幸

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